センチメンタルと終わりの関係

センチメンタルってなんだろうと、大学の先輩の卒業に際して考えた。
もっと会えたよなとか、色んなこと話せたんじゃないかとか、思い返せばできたことがもっといっぱいあったなーとか、そういう気持ちが浮かんでくる。でもそういった後悔みたいなものは後悔であって、先悔はできない。たぶん、どんなにいっぱい会って色んなことを話しても、人と人の関係でいえば、どちらにしても満足することはきっとない。1つの区切りってのは、どちらにしても切ないもんなんだろう。
という風に考えてみると、センチメンタルと"終わり"というものはきっと切っても切り離せないもので、そもそも終わりがこないんだったら切なくも悲しくもなんともない。明日も明後日も同じものを目にすると分かっていながら、今日のそれとの別れを惜しむ人はいないだろう。
というようなことを考えてたら、メメントモリだなって思った。メメントモリってのはラテン語で「死を忘れるな」とかそんな意味。うん、前も書いたわそんなこと。死を忘れるなと言われても、そもそも覚えたことがありませんってもんだけど、Deadとして"終わり"と変換するなら、僕らは毎日のように終わりを経験している。いまという瞬間は途切れることなく終わり続ける。終わりと認識していないだけで、僕らは毎日毎秒終わりを経験している。
何をやるにしても、終わりを忘れないということは結構大事で、終わることがあると考えればそのときのために少しでも、終わる前になんとかしようと思える。GTDでもゴールの定義というのは結構大事な要素だったりして、気が乗らないけどやらなければいけないこととかは、終わりをイメージすればよかったりする。
以上のことは実は、mixiに書いたものを少しだけ編集した内容なんだけど、それに友達が「逆に言えば毎日が新しい始まりでもある」とコメントしてくれた。至極当然のことでなんでこんな単純なことに気づかないんだろうとか思ったんだけど、終わることを意識するのか、次があることを意識するのか、どっちが自分に適しているのかを感じてきた結果、僕はそっちだったのだろう。