<がんばりようがある、ということ。> ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラムを読んで

<がんばりようがある、ということ。> ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラムを読んでの感想です。
ほぼ丸々引用になってしまいますが、とりあえずこんなこと書いてありましたよ。

たぶん、「がんばりようがある」とわかれば、
みんな、なんとか、がんばっちゃうんだと思う。
「がんばりようがない」というときが、
いちばん、じつは、くるしいわけで。
なんだかわからないけど、
とにかくこれをやっていればいい、
ということを知っている人は、いいなぁ。
「がんばりようがある」場をつくる。
「がんばりようがある」時間をつくる。
それが思いつかなかったら、
こどものようにあそんで、
とにかくじょうぶでいよう。
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なんとなく、いまの日本にただよっている
「重苦しさ」って、
誰かに、どうすればいいのかと
教えてもらえないような気がするんですよね。
そういう時代だよなぁ、と考えながら、
上のようなメモを書いたおぼえがあります。

うーん、概ね同意です。がんばりようがあると思えるからがんばれる、これは結構真理な気がします。最終的にはリーダーシップって、ここにあるように『「がんばりようがある」場をつくる。』というところに帰結するんじゃないかとも感じます。
でも最後の「重苦しさ」に関しては、かなり疑問です。この話の流れ的にも、実際の日本社会的にも、日本の重苦しさは「がんばりようがない」ということじゃないんですかね。僕は割と楽観的だから、まあがんばればなんとかなると思ってますが、多分いま色々と騒がれている社会問題などは、「がんばりようがない」と感じるところに起因する問題が多いんじゃないんですかね?がんばってみたところで結果は見えてるし、と考える人が結構多いんじゃないでしょうか。だから、文中にあるように「誰かに、どうすればいいのかと教えてもらえ」たとしても、んなん分かってるしそうしたいのは山々だけどできないもんはできない、と結果的になってしまう。
だからこそ、『「がんばりようがある」場をつくる。』ということが色んな場面で必要になってくるし、そのような場をデザインできる人間になれたらいいなと僕は思いますよ。