国母選手の問題について考えたこと

もう騒動がいい加減落ち着いたあたりで、遅ればせながら今回の騒動を通じて日本という社会に対して思ったことを簡単に書いてみます。
感じたことは大きく分けて2つあって、1つは画一的な生き方をしろというプレッシャーが強い社会だなということと、もう1つは個人の失敗に対して非常に了見が狭い社会だなということです。これは、初めて感じたというよりも、改めて感じたという方が近いです。

画一的な生き方をしろというプレッシャーが強い社会だと感じたことについて

今回の騒動は、みなが横並びで、同じ格好をして、同じように考えて、同じように話す、ということを望む社会からのプレッシャーが顕在化した騒動だと思います。確かに、彼の着こなしは公の場にはふさわしくないものだったかもしれません。しかし、問題となったのは開会式の場でもないし、少ししかテレビに映らない空港での出来事です。あれって、公式の場なんですかね。そもそも、現地に移動するための空港でのシーンが映らない選手だっているわけで、それを公式の場と捉えるかどうかは人によって分かれるものじゃないですかね。スポーツマンらしくなどという意見が出ていましたが、服装のような問題よりも、競技に対する気持ちの持ちようからしてスポーツマンらしからぬスポーツマンなんて他にも山のようにいるでしょう。体調管理を怠るスポーツマンなんて、服装が乱れることに比べれば圧倒的にスポーツマンらしくない。そもそも、なんで世の中にとってのスポーツマンというのは、清廉潔白で爽やかというイメージなんでしょうか。そういうイメージ自体が下らないとしかいいようがない。
ホリエモンはブログで、

寛容派にとって服装とは自己表現の道具であり、保守派にとっては服装はその人の社会性を表す道具なのでしょう。
表現が自由だと思えれば、社会性を表すのもまた自由だとして理解できるでしょう。
自分のパフォーマンスを表現しようとした国母選手も保守派の意見だって理解してるかもしれません。
「おめーらの言うことはわかるよ、ごめんな、でもそれってくだらなくね?」という感情の表現として、正しい会見をしたと思います。
ただ、原理主義派には全くの理解不能、意味不明でしょうね。

という読者からのコメントを載せてましたが、僕もくだらなくね?と思います。

個人の失敗に対して非常に了見が狭い社会だなと感じたことについて

今回の騒動を彼の1つの失敗として捉えるなら、そのたった一度の失敗に対して非常に了見の狭い意見が多かったですね。
誰でも失敗はします。しかし、その失敗から何かを学び取って次に活かそうとするのが人間であり、そのような機会を設けてあげるのが大人の役割なんじゃないでしょうか。それを、一度の失敗をあげつらい、社会から排除しようとするプレッシャーの強い日本社会は本当に了見の狭い社会ですね。なんで、次から公の場に出るときはふさわしい格好をするようにしよう、というアドバイスをするだけで事が済まないのでしょうか。そういった小さな失敗をした人を世の中からどんどん排除していくと、世の中からは誰もいなくなってしまいますよ。残るとしたら、失敗を恐れて何もしない臆病な人間だけです。
極端な言い方をすれば今回の騒動を通じて若者は、自分たちの未来は、高齢化が進む社会の中で新しい様々な考え方を受け入れようとする努力さえしない年長者たちに、狭苦しい生き方を強いられるのだなという、今まで以上の強い閉塞感を感じたのではないかと思います。事実、少なくとも僕はそう感じました。日本の未来に希望を持てない若者がいることは、こんなことが大問題になる社会なんだからそりゃ当然でしょう。