他のせいにするな、何かあったら自分のせいにして考えろ

言いたいことはタイトルそのまんまなんだけど、これは結構自分の中で大切にしてることば。

で、なんでこんな言葉を思い出したかって言うと、僕は、不幸自慢話とか、苦労してるんだ話とか、自分が一番頑張ってるんだ話とかをされると、もの凄くムッとしてしまう。そういう話のほとんどって、大して不幸じゃないし、大した苦労でもないし、大して頑張ってなかったりする(自分がもっと苦労してるとかそういう意味じゃなくて、客観的にみてそれって大したことじゃないって思うってこと)。もちろん本当に大変な人、苦労してる人はいるのは知ってるし、どうしようもなく大変な状況があるってことも理解してる。でも、これは自分の周囲にいて環境的にある程度は恵まれてる人を想定してるんで、そこはスルーしてください。

で、よくよく聞いてると、こういう話をしたがる人って、その状況になってしまったことを周囲のせいにすることが多い。誰々が理解してくれないとか、誰々がやってくれないとか、境遇がどうだとか、環境がどうだとか。話の中心は自分に置きたいのに、責任の中心は自分に置きたくないって感じ。そんでもって、同情されたい。大変だったねーとか、可哀そうだねーとか言われたいって感じ。そういう方法でしか、自分の存在を周囲に示せないと感じてるのかもしれない。

でね、昔だれかに「他のせいにするな、何かあったら自分のせいにして考えろ」って言われたことがあって、そんときは「いやいや、自分では何とも出来ない場面ってあるやろー」って思ったけど、突き詰めて冷静に考えれば確かに自分のせいに出来ることが多い。むしろ、大体において自分のせいにするのを無意識的に避けてると思う。この言葉がリアルになった瞬間は、「ほえあー、今まで何てあまちゃんだったんだ、おえー」って思ったことを今でも覚えてる。

例えば、自分がいいと思ったものを他人に勧めても相手が理解してくれないとき、そいつの理解力が足りないと考えるか、自分の説明が下手だって考えるのかってこと。こう言われると、そう思わないかもしれないけど、相手の理解力のせいにすることってよくある。確かに場合によっては、知識不足とかで相手の理解力に問題があることもあるかもしれないけど、理解力の乏しい人に理解してもらえない説明ってそもそも説明じゃない。パソコンとか家電製品の説明書ってその点で終わってるよなって思うけど、まあそれはいいや。

でね、自分のせいにしたほうが健全なんだよ。他人のせいにすると、そこでもう思考停止なんだけど、自分のせいにすることで、じゃあ次はどうしようとか、こういうときにはこうした方がいいのかとか、成長のきっかけにできるわけ。健全だし、建設的。


だからね、確かに今日の家本はアホかと思ったし、ムカついたけど、2点取られたこと、そんな審判もうまく扱えなかった鹿島にも問題があったんじゃないかなと思うんです。