トートロジー

ちょっと思うところがあったので、次の記事の中で触れようと思った記事の中に「トートロジー」という言葉が出てきた。
これは一体なんじゃろなということで、ググってみた。

まず、これがちょっと面白かった。
例として出てきてるマンガに少しほんわかした。

そして、アンサイクロペディア
もう、カオス
ちょっと抜粋します。

トートロジー (tautology) とは、トートロジーである。またトートロジートートロジーではないのか?という意見も多いようだが、まぁトートロジートートロジーであるからしトートロジーであることに変わりはない。
トートロジーにおいては、「トートロジーならばトートロジーである(トートロジートートロジー)」「トートロジーである、または、トートロジーでない(トートロジー∨¬トートロジー)」のように、変項aのトートロジーにかかわらず常にトートロジーとなるトートロジーのことである。これをトートロジーと呼ぶ。トートロジーは、トートロジーの一種である。また、いわゆるトートロジートートロジーである。

んで、内田樹の研究室を見たら、こんなことが書いてあった。

「論理的な真理性とはトートロジーである」ということが腑に落ちたのはこの頃である。
「私たちの視野は、その外側には何もないというまさにそのゆえに、私たちにとって、視覚的な境界をもっていない。同じく、私たちの論理的世界も、私たちの論理がその外側にあるものは何も知らない以上、なんら論理的な境界をもたない。私たちが考えることができないものを、私たちは考えることができない。それゆえ、私たちが考えることができないものを私たちは語ることができない。」
これはウィトゲンシュタインの『論理哲学論』にバートランド・ラッセルが寄せた序文の一文であるが、こういうことばが歳と共に「そうだよなー、真理ってトートロジーなんだよな」と身に浸みてきたのである。
しかし、「私たちが考えることができないもの」「私たちが語ることができないもの」の「極限」とか「境界」という言い方をする言うとき、私たちは空間的な表象を用いることからはまぬかれない。
というか、論理形式の適法性について語る限り、ひとは空間的表象以外に用いることができないのである。
私はここに「血路」を見出せそうな気がする。
トートロジー」というのは、実は空間的表象形式の別名ではないのか?
つまり、空間的ではない表象形式があれば、それは「トートロジー」(レヴィナスのことばを借りて「同一性の哲学」と称してもよい)からの脱出の方位を示してくれるのではないか…
というような大それたことを考えたのである。

うん、楽しかった